小田原 早川・石橋山 vol.5
以仁王の命旨は平家討伐でしたが頼朝は京とは反対の方角へ、伊豆国から東方の相模国に進行しました。
現湯河原の土肥館で軍議を開いた後にさらに東方に進行しました。
まずは源氏流派の多い東国で地固めをする計画だったようです。
そして石橋山で平家方の大庭景親、俣野景久らの軍と対峙しました。
石橋山は頼朝が韮山で挙兵し山木館に夜襲をかけた後、平家方の軍と初めて交戦した地です。
その石橋山古戦場を訪ねました。
石橋山は小田原市の西南地区で、最寄り駅はJR早川駅になります。
早川は伊豆、箱根への岐路であり入口、交通の要所、今は渋滞の名所です。
休祭日のバスが運休のため早川駅から東海道線と平行して西へ約3km程の行程を徒歩で向かいます。
西へ向かう・・ということは今日の僕は平氏方の大庭軍か俣野軍ということか。。
午後3時を回り、朝の晴天がまるで別の日だったかのように風が出て雲行きが怪しくなってきました。
伊豆方面に下る有料道路の電光掲示に大雨警報の文字が見えます。
目的地は随分と先。
無事に帰れるか。
日を改めようか。
不安になり一度は引き返しましたが乗りかかった舟だと思い直し、再度西を目指します。
この地で戦った兵士達の霊魂が後押ししているのかもない・・
そんな気もしてきました。
車の喧騒から逃れ、少しづつ勾配がきつくなり始めます。
そして海岸線から山間側に大きく向きを変えると「石橋山古戦場入口」の標識と案合図が現れます。
JR線トンネル上を越えると直ぐに「石橋山古戦場」の石碑が現れます。
ここが石橋山古戦場。。
まるでピンとこない情景です。
標識をよく見るとまだ先があるようです。
そうだ、一対一の戦いではないのだから、ピンポイントでこの場所とは示せないよな。
大勢で戦った合戦場なのだから、この辺りの区域でした、と指すのだとようやく理解しました。
現在、戦場跡のほとんどは蜜柑畑に変わっています。
しばらくその地形を眺めていると故郷の風景を思い起こしてきました。
子供の頃に友達と秘密基地遊びをした場所の景色に似ているように思えます。
かつて自然の中で遊んだ男子であれば、ここが戦争ごっこの適地だと直ぐに判別できるでしょう。
狭いエリアで複雑に起伏のある地形。
見晴らしの良い微高地と浅い谷。大小様々な樹木が繁る。
見張り、隠れ、待ち構え、襲い、逃げるを繰り返すことが容易です。
相模湾東方を望むさて、合戦は平氏方の3000騎に対し源氏方は300騎と兵力に圧倒的な差があったようです。
前方の大庭、俣野軍と後方の伊東軍の挟み撃ちに合ったということです。
頼朝が頼みの綱としていた三浦氏の援軍は合流すべく三浦義澄、和田義盛らの三浦一族の500騎は丸子川(酒匂川)の辺りまで来ていたが、豪雨の増水のために足止めに合っていたところ、頼朝軍の敗北を知り、引き返した。
きっと頼朝勢は東の方を何度も何度も眺めたことでしょう。
佐奈田霊社その三浦義継の末子の岡崎義実の嫡男、真田義忠は15騎で75騎の俣野軍と戦い、組討ちとなり敵将の俣野五郎を組み伏せ短刀を抜こうしたところ血糊が固まりサヤから抜けずに手間取っているうちに駆けつけた敵に討たれてしまったいうことです。
文三堂へ神奈川県指定史跡として源氏方の侍で奮戦し討ち死にした岡崎義実の子真田義忠を慰霊するのお社、佐奈田霊社と与一の郎党の文三家安を祭る文三堂があります。
また、道路脇に真田与一義忠討死の地(ねじり畑)というの標識があります。
ねじり畑ねじり畑でとれた作物は全て捻れてしまうと伝えられているそうです。
佐奈田霊社の案内には、頼朝は1190年、伊豆山権現参拝の帰りにここを訪れ両人の忠節を偲び涙したとあります。
そして敗戦の後、頼朝勢は西の湯河原方面へに敗走。
そして僕は東へ、帰路につきます。