韮山・蛭ヶ小島 vol.2
鎌倉時代の史書、『吾妻鏡』によると源頼朝が韮山で打倒平氏の挙兵をしたのが八月十七日となっています。
これは旧暦の表記ですが、この年の同日は現在の太陽歴で表すと9月12日になるようです。
平治の乱で囚われの身となった源頼朝が、平清盛の継母、池禅尼の助命嘆願により減罪となり1160年、伊豆韮山の蛭ヶ小島に配流されました。
頼朝の生誕は1147年4月8日ですから13歳の頃です。

ほぼ同時期を狙ってその伊豆韮山の蛭ヶ小島に行きました。
経路はJR東海道線三島駅で伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り換えます。
3駅目を過ぎたあたりから視界が開け水田や山並みのなどの緑が多く目に入ってきます。
のんびりとした車窓風景を楽しんでいると15分余りで目的の韮山駅に到着です。
韮山駅を出ると目的地の蛭小島への案内標識が要所に設置されていて難なくたどり着けます。
もっとも駅から蛭ヵ小島へは踏み切りを渡るために一度左折しあとは一直線です。
広い歩道を進むと路面に挿絵と歴史の案内版がいくつも現れてきます。
これなら事前の予習がなくても歩きながらそれを読み目的地に到着するころには歴史の予備知識がある程度得られます。
広い一本道のせいか、暑さのせいか、道のりは意外と長く感じます。
あとどれくらい歩けば着くのだろう。
すると前触れなく現れました。
日本の歴史上最強と言っても過言ではない、御夫婦。の像です。
ですが、像は想像していた力強いものではなく優しい雰囲気です。
二人の視線の先にはどうやら富士山があるようです。
そう地元の高校生が教えてくれのですが、あいにくこの日も曇天のため富士山は望めません。
夏に富士山を拝むのはなかなか難しいことです。
しかし、ここが蛭ヶ小島・・(石碑は蛭ヶ小島、案内板は蛭ヶ島となっています)その名称から想像していた風景とはだいぶかけ離れたものです。
現在は公園となっており、蛭小島茶屋というい御休み処も併設され地域の方の憩いの場になっているようです。
あとから「蛭ヶ小島」の語源を調べてみると、蛭は虫のヒルではなく、野蒜(ノビル)のことのようです。
野蒜は葱類の植物でラッキョウやニンニクの仲間です。
「小島」というのも、川の中州を意味するそうで、当時はこのあたりを狩野川が流れていたのでしょう。
大量の蛭が迫ってくるような湿地なら生き地獄にも思えますが、野蒜なら食べることもできますし、狩野川は今でも鮎釣り等が楽しめるところですから、自給自足で食べていくのにはなんとかなりそうな気もします。
頼朝は伊豆国の豪族の北条時政に監視されていたということですが、流刑といっても牢屋のようなところに監禁されていたのではなく、乳母(めのと)や側近、従者が仕え、箱根神社や伊豆山(熱海)に出かけたりして、軟禁状態よりさらに緩く自由な時を過ごしていたようです。
さすが名家本流の男子は流刑の身であっても立派な待遇。
南仏でのスローライフよりずっと素敵な生活ぶりだったのかもしれません。
それに31歳の時には監視人の娘である北条政子と婚姻関係にあったらしく長娘の大姫をもうけています。
NHKの番組風にいうなら、歴史が動いたその時!とは、もしかすると頼朝と政子が結ばれたこの時かもしれません。
これで心身の充実期に入ったのか、33歳の1180年8月17日、以仁王の平家討伐の令旨を受け挙兵、まず伊豆国目代の山木兼隆の屋敷を襲撃します。
頼朝軍の旗揚げです。
この地域は中伊豆と呼ばれ、海に面していません。
狩野川を中心にある狭細な平野がの東西の山に挟まれたところです。風景としたら日本各地で見かけられるものかもしれません。
唯一の、いや最大の相違点は眼前に雄大な富士山があることです。
鎌倉時代の始まりの始まりは、ここ伊豆韮山だったのだと思えてきました。
そして、この地域の主だった歴史を知ると、鎌倉時代以降の重要な出来事の発端や背景になったと思われることがいくつかありました。
きっとこの地形ゆえに蓄積されるパワーを秘めているのかもしれません。
こういうことを地勢とか地政というのでしょうか。
関東進出の足がかり、発電所か蓄電所のような役割を果たしていたように思えます。
きっとここは東の動力源なのです。

・・やはり少し妄想掛がかってきてしましました。
そんなことを考えながら引き続き踏査しようかと思いましたが、残念ながら時間に余裕がなくなってしまいました。
山木館跡は蛭ヶ小島から1km程東に位置します。
ほかにもまだまだ見所はたくさんあります。
是非再訪の機会をつくり、ここからの富士山の眺めも体感したいと思います。
おかげで少し蓄電されたような気になり、
そして次の訪問地を考えつつ、ひとまず帰路につきます。